熊本市本妙寺の境内に、皮膚病を癒す不思議な力があるとの噂が立ったのが、1897(明治30)年頃。治癒へのいちるの望みをかけた皮膚病患者は、全国津々浦々から本妙寺に集まったが、そのなかにハンセン病を患う人が大勢いた。当時、“らい”と呼ばれたこの病は、伝染病であるだけでなく遺伝病とも誤解され、明治、大正にかけては発症者の一家離散を招くなど、すさまじい差別と偏見の対象となっていた。境内周辺は発病後に自ら家を離れた人、貧しい人「木賃宿」のような家屋に泊まったりしていたが宿賃が払えずに路上生活する人たちであふれ、悲惨な状況にあった。熊本で布教活動を行っていたパリ宣教会カトリック司祭ジャン・マリー・コール師は、こうした目を覆うあまりの惨状に接して救済を決意。「マリアの宣教者フランシスコ修道会」設立者、シスターマリー・ド・ラ・パシオンに手紙を出し、救済を求めた。インドなどで先駆的にハンセン病患者救済に尽力していた創立者はこの要請を受けて、1,000人以上のシスターの希望者のなかから5名を選び、ローマから日本へと派遣した。シスターたちは1898(明治31)年10月に熊本へ到着。以後、様々な苦難のなかでハンセン病救済事業に献身した。これが今日の「社会福祉法人聖母会」の礎となる。
ローマから派遣されたシスターたちの仕事は、道端で暮らすハンセン病患者の足を、桶の水で洗うことから始まった。最初はこうした世話さえ拒否されたが、約1ヶ月後には彼女たちの善意が理解され、消毒などの治療を受け入れるようになっていった。来日から3年後の1901(明治34)年には、熊本市島崎村琵琶崎にハンセン病施療院を新築し、「待労院」と名付ける。当時のハンセン病療養施設は、1889(明治22)年に開かれた神山復生院をはじめとして、宗教家による博愛精神に基づいて設立された私立施設のみであり、待労院も全国で4番目に設立された私立のハンセン病療養所だった。シスターたちはハンセン病患者のみならず、お年寄りが米俵に入れられて門前に捨てられていればこれを養護し、遺棄児があればこれを育てるなど、求められるままに事業を創設。彼女たちの献身的な行為に心打たれた日本人女性たちが、無報酬で待労院で働き始めるなど待労院周辺はある種の“福祉村”になっていた。また、「マリアの宣教者フランシスコ修道会」には各地から事業創設の要請が寄せられた。会が母体となって、九州のみならず、北海道、関東各地へと事業を広げていった。当時のシスターたちは、無報酬、自給自足の貧困生活で、さらに1942(昭和17)年には対戦国籍のシスターが抑留されるという事態もあるなかで、これらの事業はたるみなく続けられた。創設から107年を経て、先駆者たちが生涯をささげた福祉事業と「最も困っている人へ手を差し伸べる」奉仕の姿勢は、今も脈々と引き継がれている。
―「最も苦しんでいる人、見捨てられている人にいつでも手を差し伸べる」―こうしたマリアの宣教者フランシスコ修道会の精神をいかに現場の職員に伝えていくかが課題の1つになっております。社会福祉事業法施行後、社会福祉法人聖母会として認可され、マリアの宣教者フランシスコ修道会は聖母会の後援団体となり、各施設へのシスターの派遣や、施設や土地、寄付金などを法人に提供してきました。こうした先人の遺した有形無形の遺産をいかに現代に生きた形で残していくかです。幸いなことに職員に恵まれ、法人全体では約1,000人の職員がおりますが、現在の職員まではじかに理念が伝えられると思うのです。しかし、シスターたちの高齢化が進んできており、宣教者・修道会の奉仕の心を失ってしまったら、私たちの法人の存在意義はなくなってしまうと思います。福祉の本当の仕事とは何か、私たちが携わる対象は商品や物ではないのだという本質を常に見失わないようにしなくてはなりません。愛と真理に基づいて、何をおいても困っている人に手を差し伸べるという創立者の精神を事業で職員が毎日実践できること、そこに法人の運命がかかっていると思います。